- 畳堤とは?


五ヶ瀬川は、昭和18年の台風15号により甚大な被害が発生し、自治体や住民から国の直轄河川としての要望が高まりました。
その後押しもあって、昭和26年に当時の建設省(現在の国土交通省)直轄管理区間に編入されました。
それ以前は宮崎県が中小河川改修事業として管理しており、写真は当時の延岡土木事務所職員(土木技術者)と推定されます。
(写真提供:甲斐正人さん)
- 1.五ヶ瀬川の水害と「畳堤」

- 五ヶ瀬川は、宮崎県・熊本県・大分県の3県にまたがる幹川流路 延長106km、流域面積 1,820km2 (九州第4位の流域面積、九州本島面積の約1/20)の一級河川です。
- 宮崎県延岡市の市街部を流れる五ヶ瀬川下流域では、大瀬川と分派した後、河口付近で3つの川が合流しています。
- 一度大雨が降ると、4つの川の水が一気に河口に流れ込みます。しかし、河口が小さいために流水が海に流れにくくなっており、五ヶ瀬川の水位が堰上げし、市街部ではたびたび浸水被害を受けてきました。
- 五ヶ瀬川の「畳堤」は、浸水被害から市街部を守るために造られました。
- 2.畳堤の特徴


大正末期~昭和初期に施工された五ヶ瀬川の「畳堤」は、平成27年9月に土木学会「選奨土木遺産」に認定されました。

- 「畳堤」とは、高さ60cmのコンクリート製の堤防で、上から見ると幅7cmの隙間が空けてあります。この隙間に畳をはめ込み、台風などで川の水が堤防を越えて氾濫する前に、畳を差し込み洪水を防ぐための施設です。
- 全国的にも珍しい施設で、五ヶ瀬川のほか長良川、揖保川で「畳堤」が確認されています。五ヶ瀬川の「畳堤」は、大正末期~昭和初期に造られ、現存する最も古い「畳堤」です。
- 五ヶ瀬川の「畳堤」は築造された総延長2,000mのうち、980mが現存してます。


- 3.「畳堤」が設置された理由とは?


- 大正末期頃の大瀬川河口は、方財町と毛なし浜経由で市道が通過しており、昭和の時代にはバス路線として活用されていました。(鷺島橋架設で廃止)
- 大正末期頃の五ヶ瀬川と大瀬川は、河口付近で大瀬川から五ヶ瀬川に流入しており、 洪水時には五ヶ瀬川のバックウォーター現象を抑え、延岡市中心部を水害から守るため、大瀬川の河口を消防団が開削していました。一度通水すると、命綱を頼りに全速力で後方に退避しなければならない命がけの作業でした。
- 河口付近の方財町の住人や漁民の方々たちは、生活用道路が閉ざされると孤立し、また流木が海面に流れ込むため開削されることに反対し、当時は揉めごとがあったとのことです。
- 畳堤は、大瀬川河口開削を行うまでの間、五ヶ瀬川の水位が上昇することに備え、 延岡市街地中心部を水害から守るため築造された施設と考えられています。
- 後の水防活動の基本である考え方の自助、共助+公助の精神に乗っ取った歴史的土木施設で、水害時に実際に畳が活用された記録も残っています。


- 自助・共助の精神と畳堤

「畳堤」が伝える「自助・共助」の精神
- 「畳堤」が造られた当時は、一般住宅は五八間(江戸間)の畳を使用。
- 一方、当時のお寺や旅館等では、もっと大きな畳(長さ186㎝)を使用。
- 五ヶ瀬川の「畳堤」は、一般住宅で使用する、五八間(江戸間)の畳の大きさにピッタリ合うように造られていました。
つまり・・・
-
当時は、住民自ら我が家の畳を持ち出して洪水を防いでいた!
住民の知恵と工夫で自分たちの街を守っていた!

「畳堤」は住民一人ひとりの「自助・共助」の精神を今に伝える貴重な施設!
・昔の五ヶ瀬川、大瀬川の両川の「畳堤」は、総延長が2,000m。
・全ての「畳堤」に畳をはめ込んだとしたら約1,000枚の畳が必要でした。
⇒ 6畳間で換算すると、約166部屋分です!
・昔の五ヶ瀬川、大瀬川の両川の「畳堤」は、総延長が2,000m。
・全ての「畳堤」に畳をはめ込んだとしたら約1,000枚の畳が必要でした。
⇒ 6畳間で換算すると、約166部屋分です!
現代に生きる我々の使命は・・・
・「畳堤」を地域防災のシンボルとして守り、保存する
・洪水の被害から街を守ろうとした昔の人々の知恵や工夫を見直す
・「畳堤」に込められた「自助・共助」の精神を広く伝える
・「畳堤」を地域防災のシンボルとして守り、保存する
・洪水の被害から街を守ろうとした昔の人々の知恵や工夫を見直す
・「畳堤」に込められた「自助・共助」の精神を広く伝える